こんにちは。ヒューマンデザイン アナリストの諸星和子です。
決断するのに「疲れる」と感じたこと、ありますか?私はあります
例えば、毎日毎日、何を食べるか決めて、スーパーに行くか考えて、何を買うか決めて、作る手順を考え、実際に作り、食事を出して、みんなが食べたら片付けて、また明日のことを考えて・・・・・の繰り返しだったころ。
実際主婦の方は多くの場合、自分のことではなく、自分以外の人(配偶者や子供)のことまで考えて決めているわけですからね~。他人のことを自分が決めなきゃいけないなんて、なんて疲れる立場でしょうか。それに加えて他の行動も決断することも毎日山のようにあるわけですから、どれだけ疲れることかと思います。
だったらなんでも、少なくとも自分のことは自分で決めれば楽かというとそうでもなく、かつて「合わせるよ」「任せるよ」「君の好きにしていいよ」と言われ続けて、これまた心の底から疲れたことがあります。なんでも私に合わせてくれる相手を、周りの人は「優しい人」と評していましたが、私は何でも決めさせられて(と感じて)、本当に疲れ切ってしまいました。
まあ、それももう一昔前の話であり、そんな私もいまやヒューマンデザインを学んで、正しく決断することをここ数年学び、実践してきたわけですが。
そこでつくづく感じることは、「人はいつでもなんでも決断したいわけではない」ということ。言葉を変えて言うと「自分が決断することじゃない、自分にとっての割とどうでもいいこと」はこの世にたくさんあるということです。
私がヒューマンデザインで学んだ大切なことは、おそらく「決断しない」ことを大事にし始めたことだと思います。「(少なくとも今は)どうでもいい」という気持ちを尊重し始めたという意味です。
私が決断しなかったからと言って宇宙が消滅するようなことは起こりませんので(たぶん)、いま決めなくていいことは決めないようにし始めました。そうすると、何か決めなきゃいけないことが逆に見えてきたりします。おそらくそれが、すべての人にとって、正しい決断の第一歩ですよね。
そして誰かに決めてもらう必要がある場合の、相手にとっての「決断のきっかけ作り」もヒューマンデザインで学びました。これは武器ですよね~。
まあこれを知っていたからと言って、相手が自分の望むように動いてくれるわけでも、ちゃんと決断してくれるわけでもないのですが、ただ、相手に必要なきっかけを与えられるというのは大きなことだと思います。
これ、自分に関しても言えますが、何のきっかけもないのにいきなり「正しく決断しろ」と言っても、人類の9割の人にとっては難しいことですよね。
砂漠の真ん中にいきなり放り出されて「君の好きにしていいよ」「君の決断を尊重するよ」と言われても、いったいどうしろというのか。「右に行けば水がある」「左に行けば小屋がある」という情報があってこそ、本当に選択→決断できるんですよね。
だから相手にも、正しい情報ときっかけを与えることって本当に大事です。その情報ときっかけがあってこそ、そのとき自分が決めるべきことに向き合えるということですね。そうして正しい流れで決断するときって、きっと何の疲れもないと思うのです。
「いま決めなきゃ」「私が何とかしなきゃ」「決める責任があるから」そんな思いで決断することって、本当に疲れますよね。「決断するのに疲れる」というのは、もしかしたら何かのサインかもしれません。少なくとも私にとっては、疲れる決断というのは「この物事(とか人とか)への関わり方を考え直せ」というメッセージです。
みなさんは、毎日の決断に、疲れたりしてませんか?