こんにちは。ヒューマンデザイン アナリストの諸星和子です。
決断シリーズ(?)第2弾です。
ヒューマンデザインシステムで「正しい決断」を学んでいる私ですが、「実は人は自分で決断したくないものである」と気付いています。多くの人は、自覚していてもしていなくても、自分自身で決断するということを、やりたくないのではないでしょうか。
それは前回書いた「自分にとって今はどうでもいいから」ではありません。単純化して言うとおそらく「より正しいと思われる決断を選びたいから」です。
ヒューマンデザインでいう「正しい決断」は、「自分の内なる権威」でなされます。これはいわば身体の細胞からの声であり、言葉では聞こえませんし、多くの場合、理由も分かりません。ただの身体の反応です。それをどこまで尊重できるかが、ヒューマンデザインの実践の鍵です。
身体の細胞からの声と言っても、身体の中の情報処理だとか物事の認識が正しく機能していなければ、それさえも正しく反応しない可能性も高いですけどね・・・(これに対処するのがPHSです)。
ヒューマンデザインを通じて、このように物事を決断するのが自分にとって正しいのだと知らない人は、今までの知識や経験で決断します。こういうことがあったから、きっとこうなるだろう。だったらこうしたほうがいいだろう。あの人がそうしてほしいというから。○○が○○だから。などなどなど、「それなりに理にかなっていると思われる決断」です。
「理にかなっている」強さは、もしその決断が予想外の結果になったとしても「納得できる」ことです。いえ、自分が納得できるのが重要なのではなく、むしろ「誰かを説得できる」のが大事なのかも知れません。「こういう結果になってしまいましたが、自分は○○○○の理由で、こうしたほうが良かったと思ったんです」と説得することができます。
それが「内なる権威」での決断だったらどうでしょう。「自分の身体がそう反応したんです」という決断理由を、どれだけの人が理解してくれるでしょうか。
そんなとき多くの人は、「より理にかなっていて、より正しいと思われる決断」をしたくなります。仕方ないことですね。今まで何度も、先生がそういうから、医者がそういうから、親がそういうから、家族が、子供が、お金が、時間が、などなどの、「自分の身体の反応以外の理由」を耳にしてきました。特に海外では、ここに「神様がそういうから」というのも加わります。
そうして自分以外のものを理由として決断するもう一つの大きな理由は、「その物事について自分がよく知らないから」というのもありそうです。
例えば私が高級フレンチレストランに行っておいしいワインを飲みたいときはソムリエさん任せにするかも知れません。ワインについて正しく選択できるほどの知識がないからです。
でも、でもですね、自分の生き方について、自分以上に知っている人はいるんでしょうか。自分の人生を、自分以外に歩める人はいるんでしょうか。自分の人生の喜びや悲しみを、自分以外に感じることが出来る人はいるんでしょうか。いないですよね、自分しか。
身体の解剖学や病気に関しての知識は医者の方が上であろうと、自分という人間に関しての知識や経験は、自分の方が圧倒的に上です。なのに病気になると、自分の人生のすべてを医者任せにする人が、なんて多いんだろうと感じます。まあ、仕方ないですけどね。
忘れてはいけないことがあります。ヒューマンデザインはすべての人のためのものではありません。そういう均質化から抜け出す準備が出来た、ごく一部の人のためのものなのです。それ以外の多くの人は、自分の本質からの決断を放棄して、均質化の中で生きていくものなのです。
ラーはヒューマンデザインシステムのことを、「羊飼いについていく羊のためではなく、自分で自分の道を歩む狼のための知識である」と言っていました。素晴らしい表現だなと思います。